国際JOCの歴史 その2
戦火の試練 1939~1945年
1939年 第二次世界大戦勃発
戦争勃発のため、JOCローマ巡礼計画が中止となる
1940年 フランス被占領地域でJOCの活動が禁止される
1941年 オーストラリアJOC設立
1942年 カルデン神父とベルギーJOCの会長2名が3か月間逮捕される
フランスJOC15周年記念行事
ベルギー人労働者のドイツでの強制労働にJOCが抗議
1943年 パリJOC書記局閉鎖。協力司祭ゲラン神父が逮捕される。
ドイツで「外国人JOC」の第一回全国記念日
ドイツ秘密警察によるJOCへの弾圧
1944年 ドイツの「外国人JOC」が全国で70の連合、400都市で活躍する
ベルギーJOCの指導者10人が逮捕、強制収容
パリJOC書記局再開
1945年 1月 最初のジョシストの1人ポール・ガルセがドイツのダッハウ収容所で死亡
2月 同じくフェルナン・トネがダッハウ収容所で死亡
2月4~11日 ヤルタ会談
2月 フランスJOCの指導者マルセル・カロがマウハウゼンで死亡
5月 ナチス・ドイツ降伏
6月 サンフランシスコ会議にて国連憲章に51カ国が署名
8月 広島・長崎に原爆投下 日本降伏
8月 ブリュッセルでJOC国際研究会開催

戦中のベルギーJOC
戦前からベルギーでは「レクシズム」というカトリックの教えを用いたファシズム運動がさかんになり、ベルギーのJOC運動はそれに反対する声明を出していました。このレクシズムは、その後ナチスドイツに取り込まれていきます。
1940年5月にドイツ軍がベルギーに侵攻し、多くのベルギー人は南フランスへ逃れました。
当時ベルギーには男女4つのJOC運動(JOC、JOCF、KAJ、VKAJ)があり、そのリーダーたちも同様に避難しました。5月27日にベルギー軍が降伏し、避難民がベルギーに帰れるようになったのは9月のことでした。
1942年にはカルデン神父と全国会長2人が逮捕され、指導者たちの不在と厳しい監視体制から、JOC運動は弱体化します。
しかしそれでも、毎年研究集会を開き、6~8千人が参加しました。
戦中にJOCはドイツによる強制労働の問題を取り上げ、戦争捕虜の解放を訴えました。また、青年労働者が必要としているものは何か調査し、戦後の「青年労働者憲章」という活動計画の基礎を作りました。

ドイツのダッハウ収容所
戦中のフランスJOC
1940年5月にナチスドイツがフランスに侵攻し、パリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下に置かれました。
ドイツ・イタリアに割譲されなかった南部の地域はペタン元帥を主席とするヴィシー政権が治め、占領地域に対し「自由地域」と呼ばれました。
ドイツの侵攻中、パリにあったフランスJOC全国書記局は、最初はリモージュへ避難し、次に南部のリヨンへ移って、運動の再編成を行いました。
1942年にはフランスJOC15周年を祝い、リヨン、マルセイユ、サンテチエンヌ、グルノーブル、トゥールーズ、リモージュから7万人の青年労働者が集まりました。
一方、占領地域でも、パリ書記局に残った青年労働者たちが運動を続けていましたが、状況は自由地域よりももっと厳しいものでした。ナチスの監視はいたるところにあり、軍事政権が労働組合や連帯の活動すべてを禁止していました。リーダーたちは危険を冒しながら、自由地域やベルギーのJOCと連絡を取り続けました。
1942年11月にドイツ軍はアントン作戦を実行し、自由地域への侵攻を開始しました。
フランスJOCは1943年6月にヴェルサイユ近くのビュザンヴァルで全国会議を開始し、リヨンとパリの2つのJOC書記局は再統一されることになりました。
しかし、その時期からナチスによる強制労働が始まり、たくさんの青年労働者がドイツでの労働に送られました。
1943年8月3日、パリのJOC書記局が捜索を受け、閉鎖されました。
協力司祭のゲラン神父は、運動を守るために自分が会長だと名乗り出て逮捕され、142日間投獄されました。
同じ日にリヨンのリーダーであるポール・ビュッテも逮捕され、強制収容所へ送られました。

1987年に列福された
ドイツJOCの誕生
軍需工場のために労働力を必要としていたナチスドイツは、徴兵によりドイツ国内だけでは労働者不足となり、ベルギーやフランスやその他の占領国から労働者を徴用する強制労働を始めました。フランスからは130万人、ベルギーからは20万人がドイツへ送られました。
ベルギーとフランスのそれぞれのJOC運動は、強制労働に送られた労働者たちと連絡を取り、支援に努めました。
徴用された労働者たちは、JOCのバッヂをつけたり、口笛でJOCの歌を吹いたり、日曜のミサで会ったりして、互いにJOC会員としての連携を取り合いました。ブリュッセルとパリのJOC書記局にはドイツからの手紙が何百通も送られ、収容所のバラックや労働の厳しさを訴えていました。
やがて徴用された先でJOCグループを作る若者たちが現れ、フラミッシュ(ベルギー)からの2人の専従者や、フランスの司祭たちが実際にドイツに出向きグループ作りを助けました。研究会や集会が数多く行われ、時には宗教的な集まりと見せかけて開催されることもありました。
1943年9月にはデッサウで総会が開かれ、このころまでにドイツ国内には1800人のJOC会員がいたといいます。
しかし、ドイツでのJOC運動は最初期から秘密警察ゲシュタポに監視され、脅迫、逮捕、尋問、投獄などの弾圧を受けました。
無数の闘士たちが投獄され、ある人たちは命を落としました。
強制労働者たちのJOC運動はドイツ人たち、とくに司祭たちとのつながりも持ち、マンハイムやメーアスブルグなどでいくつかのJOCグループが始まりました。しかし、すぐにゲシュタポに見つかり、解散させられてしまいました。
戦争が終わってすぐに、ベルギーのJOC会員たちは新しく生まれたドイツJOCと連絡し、団結して活動を始めました。
戦中のカナダJOC
第二次世界大戦中、ヨーロッパ以外のカナダ、オーストラリア、ブラジルのJOCは活動を続け、発展していました。
カナダのケベック州では1931年にJOC運動が出発しました。設立の功労者となった一人は、アンリ・ロアイ神父です。ケベックJOCはベルギー、フランス、イギリスなどの教会の情報網とつながりながら、発展していきました。
1939年9月にカナダがドイツに宣戦布告すると、1941年には徴兵制が再開され、100万人もの人が動員されました。兵士たちはフランスやイタリアに派兵され、41,000人もの命が失われました。その中にはJOC会員も多くいました。また、女性労働者たちも軍需工場に動員されました。
戦中カナダJOCは、派兵された兵士たちに手紙や贈り物を贈る活動を行いました。また、戦争のせいでヨーロッパとの連絡の途絶えたラテンアメリカのJOC…チリ、コスタリカ、メキシコ、マルティニーク、ハイチ、キューバ、インドシナなどとの連絡をつなぐ役割も担いました。
オーストラリアJOCの誕生
オーストラリアは1930年代初頭の大恐慌で大きな打撃を受け、たくさんの労働者が失業と貧困で苦しみました。
この困難を乗り越えようと、教会の社会的な教えについて研究していた学生のケヴィン・ケリーは、フランスJOCの手引書を手に入れ、これこそが今のオーストラリアに必要なものだと確信しました。ブリュッセルのカルデン神父やその補佐であったロベール・コタン神父に連絡を取り、オーストラリアでJOCを広める活動を始めました。
ケヴィン・ケリーは自らグループ作りを進めるとともに、ポール・マクガイアと一緒に、1939年JOCとカトリックアクションについての小冊子を発行しました。そしてアデレイドやメルボルンで、青年労働者のグループが立ち上がり始めました。
1941年には、メルボルンで活動を始めた若い司祭たちが、JOC運動の必要性をダニエル・マニックス大司教に説き、すでにあったカトリック青年団をJOCに組み替えることが決まりました。この組み替えの記念日である9月8日はそれ以来、オーストラリアJOC設立の日として祝われています。

「青年労働者の尊厳/JOCで私たちと共に戦おう」
